古典文学

稲作伝来、弥生文化と中国史記の関連性を思う事

最近、また日本古代史を読み直しています。

幸い昔から古事記、日本書紀といった神話の本に親しんでいたのと、中国【史記】を読んでいたので少しだけ頭の中に残っているので調べだすと飽きないのですが、なかなか面白い共通点もあったりします。

今まで学校でも当たり前のように教えられ、思ってきた朝鮮半島を経由しての稲作文化の伝来に?が感じられたりもします。

日本に稲作が伝来し弥生時代が幕を開けた時、中国で何があったかといえば、春秋五覇の一つ、越の国の滅亡と春秋時代から戦国時代への移行

越の国はいわゆる漢民族とは違う文化風習の民族で漢民族から見たら蛮族と見られていた民族。

その民族が国家の崩壊と共に日本に逃亡したことが稲作技術の伝来につながったのでは?と私は考えます。

・理由はこの越民族の風習、文化が【魏志倭人伝】で書かれている倭人の特徴とぴったり重なる点

・弥生時代に銅が利用され始めましたが、越民族は銅の生成技術に秀でていた点
1920p

中国春秋時代後期の越の王「勾践」保有していたといわれている名剣。
1965年12月湖北省江陵県(現在の荊州市荊州区川店鎮)の望山1号墓より出土した。
2千年以上経過したにも関わらず腐食する様子も無く、今でも鋭さを保っている。
原因を探るためにX線回折法で分析したところ、剣本体は、柔軟で折れにくい銅で作られており、刃の鋭さを維持し硬くするため錫が多く含まれる。
表面の模様には硫黄が多く含まれ変色を抑えていることが判明した。
この結果から、化学組成が空気を遮断する鞘と同じ効果を発揮し状態のよい保存となった可能性が高いと考えられる。

 

・中国北部にいる漢民族の主食は麦であり、南方民族である越は米を主食として稲作文化に秀でていた点。

 

・仮に越民族が日本に集団移動するとした場合、当時の戦国時代、楚、斉、魯、燕といった敵国が関所を設けて厳重に目を光らせている中を移動して朝鮮国内に入り、さらに朝鮮半島から日本に移動するような危険な事をしないだろうなと思います。
Goujian
勾践(こうせん)中国春秋時代後期の越の王で春秋五覇の一人

 

まあ、確実な証拠も無い個人的な妄想の域を出ない与太話ですが、時間があれば記事としてまとめてみたいなとも思います。

ちなみにノストラダムスの予言書には日本民族はギリシャ神話オリンポス十二神の一人、ヘルメスの血を引く民族と書かれていますが、見方としては日本にきた渡来人の中に古代ギリシア人がいたとも受け取れます。

そう考えてみると、なかなかロマンある話になりますね。

皆様はどうお感じになるでしょうか?


私が目標に掲げる理想の政治家のひとり 【史記】に出てくる鄭の名宰相 子産

私の理想の政治家は【晏子春秋】晏嬰【貞観政要】に出てくる李世民、そして【史記】に出てくる子産です。
(みんな中国の古典に出てくる人物ですね。狭量の排外主義の連中が聞いたら怒りだしそうですね笑)

今回はその中から【史記】に出てくる子産とはどんな人物なのか?
ご紹介させていただきます。

今から2500年ほど前、中国春秋時代の鄭という国に子産という名宰相が登場しました。

子産の政治の特徴は剛と柔、つまり厳しい部分と優しい部分のバランスがよく取れていました
このような手法によって子産は鄭の国を安泰に導きました。

【厳しい部分
子産が宰相を務めた鄭という国は他の国に比べて小さな国で大国と対峙して生き残るためには、何より国力を充実させ国家として強化させることが一番の課題であった。

子産は様々な手を打って農業の振興策を講じる一方、軍事費を確保するために新しい税金の取り立て制度を導入しました

この時国民は負担のつらさに耐えかねて
「子産など殺してしまえ!」
と、怨嗟の声が国中に満ちました。

重臣たちはごうごうたる非難の声に耐え兼ねて中止を進言しました。
しかし、子産はその声には一切屈せず
国の利益になる事なら好みを犠牲にしても構わない。私はこう聞いている。
 善を行うならあくまでもやり抜く、そうでなかったらせっかくの善も役に立たぬ、と。
 国民の非難を受けたからと言って改めるわけにはいかぬ。私は断固としてやり抜くつもりだ。

こう言って子産はあくまでも政策の貫徹を図った。

しかし、3年、5年と経つうちに、農業の振興策が軌道に乗って国民の生活も向上していくと、当初は子産を殺してやれと息巻いていた国民も、次第に子産の政治を善性と讃えるようになった。

このように非難に屈しないで自ら確信する政策を貫徹するやり方が剛の部分。

優しい部分
鄭の国には昔から指導者の養成機関として各地方に「郷校(きょうこう)」と呼ばれる学校があった。

この「郷校」がいつしか政府のやり方に不満を抱く人々の政治活動拠点として利用されるようになってしまった。

放っておけば反乱や暴動といった活動に発展しそうな勢いである。
心配した重臣たちが「郷校」の閉鎖を進言したところ、子産はこう言って反対した。
いや、その必要はない。
彼らは朝晩の仕事を終えてから郷校に集まって我が国の政治を批判している。
私は彼らの意見を参考にして、評判の良い政策はどんどん実行し、評判の悪い政策は改めるように心がけている。
彼らはいわば私の師である。もちろん弾圧すれば彼らの言論を無理やり封じ込めることができるだろう。
しかし、それは川の流れをせき止めるようなことだ。
そんなことをすれば、やがて水は堰を切ってあふれだし、大洪水となって数え切れぬ死傷者を出すに違いない。
そうなったら手の施しようがなくなる。それよりは少しずつ放水して水路に導くに越したことはない。
国民の言論もこれと同じこと。弾圧するよりも聞くべきは聞いてこちらの薬とした方がいい

こういう態度は子産の政治に対する柔軟な姿勢を示しています。

子産は剛と柔のバランスの取れた政治を行って名宰相と讃えられましたが実際問題、剛と柔の兼ね合いは難しいところです。

子産は病で死の前に後任の子大淑という人物を呼んでこう忠告しています。
私は政治には2つのやり方があると思います。
1つは剛の政治、もう1つは柔の政治だが、一般には剛の政治を行ったほうが良い。
この二つは例えてみれば火と水のようなものだ。
火の性質は激しく見るからに恐ろしいから人々は怖がって近寄ろうとしない。
だから、かえって火によって死ぬものは少ない。
ところが水の性質はいたって弱々しいので人々は水を恐れない。
そのため、かえって水によって死ぬものが多い。
柔の政治は水のようなもの、一見やさしそうだが実は非常に難しい。


一般に政治家は人気や評判を気にするあまり柔に偏った姿勢、国民に阿った政策公約を取りがちである。
しかし、それでは政治に締まりがなくなってくる。
子産をそれを戒めたのである。

この言葉は2500年前から今の政治、政治家のポピュリズム政治に対する警鐘と私は受け止めています。


私の座右の書

私の座右の銘ならぬ座右の書とさせていただいている一文です。
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誡子書とは中国古典【三国志】に登場する天才軍師諸葛亮孔明が子孫に向けてが残した家訓書とも言える書です。

<原文>
夫君子之行,靜以修身,儉以養半
非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠
夫學須靜也,才須學也。非學無以廣才,非志無以成學。
淫慢則不能勵精,險躁則不能治性
年與時馳,意與日去,遂成枯落,多不接世,悲守窮廬,將復何及。

<口語訳>
君子たるものは静かに身を修め、質素倹約にして徳を養うのがよい。
寡欲でなければ志が明確にならず、冷静でなければ達成することが遠のく。
学問は静謐から、才能は学問から生まれる。
学ばなければ広い才能を得られない、志がなければ学問は完成しない。
怠慢では学問に精励できず、早くても雑では完成することができない。
年月の過ぎ去るのは、駆けるように疾く、好機も去り、意志も潰えてしまいがちだ。
最後には年老いて、世間に認められずに、悲しく貧しい家を守るようになる。
こうした様にならないため、どうすればよいか考え励むべきだ。

私が大好きな一文です。
常に自戒しつつ先人が切り開いた道を感謝を忘れずに進み、次の世代が歩むためにその道を汚さないよう、精進していく所存です。


参照ページ:「諸葛孔明の子孫が住む村、諸葛八卦村」

大公堂は諸葛一族の祖廟です。
大公堂には、諸葛孔明が残した誡子書が掲げられています。

http://www.e-asianmarket.com/asia/zhuge14.html
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