毎日新聞コラムに載った記事より転載
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 

  「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。

「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。
そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に避難させたのである。

そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然たる戦力差。
しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。

最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。

その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。

戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の亡骸を泣きながら埋葬した。
後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミとショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。
 
後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ尊長ら島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。

この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊司令官チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。

 「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」


ちなみにパラオに存在するこの神社は、
天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」を御祭神とする神社である。

パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアは、敗戦から復興し様々な分野において世界を牽引する力になっている今日の日本を称え、また、戦時中のパラオ統治に今でも感謝し、パラオは世界で最も親日感情が高い国と言った。


そして当時を知るパラオの長老たちは、今でも日本をこう呼ぶという。


           「内地」

と。