Congressional Research Service Memorandum                 2007/4/3
ラリー・ニクシュによる日本軍の慰安婦システムについての報告書


Subject: 日本軍の慰安婦システムについて
From: ラリー・ニクシュ アジア情勢、外交問題、国防と通商部門のスペシャリスト

この報告書は、1930年代から第二次大戦の間に日本の軍人にセックスを提供するために、日本軍によって組織された「慰安婦」システムについて、その背景を明らかにしている。この件に関する更なる質問は、内線77680で著者に連絡が可能です。

イントロダクション

この報告書は、いくつかの見地から従軍慰安婦問題について述べようと試みている。日本政府と米国下院の間で論争の引き金となった2つの処置に関する議論から始める。
それは2006年の下院国際関係委員会と、従軍慰安婦問題に関して日本を非難する2007年の下院外交委員会での決議、そして旧日本軍の「慰安婦システム」管理/監督の関与を認め謝罪した1993年に出された河野談話の見直しを求める日本国会の特別委員会による発議である。
レポートは、2007年3月1日以降、安倍晋三首相とその内閣が出した従軍慰安婦問題についての多数の記述を組織化された方向に要約する。日本政府と日本軍が慰安婦システムに関与した証拠と、どのようにそれが運営されてきたかを記述している。更に、1990年以降の慰安婦案件に関する日本政府の過去の記録と、元慰安婦及び、関係各国の政府の反応について概説する。扱う他の問題は、日本の歴史教科書に於ける慰安婦問題と、日米両国法廷での従軍慰安婦訴訟までを含めている。本報告書最後の「結論」部は、2007年以前の日本政府の方針の信憑性と、2007/3/1以降の安倍首相の発言と河野談話修正を求める国会での発議に対する影響を評価する。

下院決議

第二次世界大戦以前、及びその間の日本軍「慰安婦」の歴史問題は、日本政府及び国会と米国下院との間で論争問題となった。この問題は、日本、アメリカその他いくつかの国のメディアから大きな注目を浴びた。慰安婦問題は、1990年代初めから、大きな関心を集めている。現在の日本政府と米下院の論争問題は、2006年と2007年の下院決議とそれに対する日本側の反応によって生じたものである。以下に2つの下院決議の要点を掲載する。

下院決議759号(H.Res.759.) 最初の決議案である759号は、2006/9/13の下院国際関係委員会で通過したが、11月の休会前に投票を行わず決議されなかった(継続審議)。主な条項は下記の通り。

- 日本政府は、1930年代から第二次世界大戦の間に旧日本軍よって行われた若い女性に対する性奴隷制度、所謂「慰安婦システム」を正式に認め、責任を認めなければならない。(事を表明)

-  日本政府は、性的奴隷を目的として慰安婦の誘拐と支配(管理)を組織した。

- 「慰安婦」は彼女らの家から直接誘拐されたか、甘言で騙され性奴隷にさせられた。

- 日本政府の慰安婦システムは、慰安婦に対して「人道に反する数え切れない犯罪」という苦痛をもたらした。

- 専門家は20万人もの女性が性奴隷にされたと断定している。

- 日本の歴史教科書から、「慰安婦システム」に関する記述を減らす、又は削除するなどの取り組みが官僚の助けを得て行われている。

- 日本政府は、この甚だしい「人道に反する罪」について、現在と将来の世代に教育しなければならない。そして、慰安婦という奴隷制度が決して起こらなかったという主張を公的に反駁しなければならない。

- 日本政府は、慰安婦問題に関して、国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告に従わなければならない





下院決議121号(H.Res.121.) 2つ目の決議案である121号は、2007/1/31に提出された。そして、現在下院外交委員会によって審議されている。2007/3/31時点で、75人の下院議員によって発起人となっている。主な条項は次の通り。

- 日本政府は、1930年代から第二次大戦の間に行われた旧日本軍による若い女性に対する性奴隷の強制について、正式に認め謝罪し、そしてその歴史的責任を曖昧にせずに、明確な方法で認めなければならない。

- 日本政府は、性奴隷という唯一の目的の為に、若い女性の確保を公式に旧日本軍へ委託した。

- 日本政府による強制的な従軍売春である「慰安婦システム」は、その非人道性に於いて前例が無いと考えられ、20世紀最大の人身売買事件の1つである。

- 日本の歴史教科書のいくつかは、慰安婦の悲劇やその他日本が行った戦争犯罪について、軽視しようと画策している。

- 日本の国民、官僚らが、政府の謝罪を表明した河野談話の撤回や見直しを主張している。

- 1995年に発足した政府支援のアジア女性基金が、元慰安婦に対して570万ドル(6億円)もの「償い金」の支払いを委託された。

- 日本政府は「公式の謝罪を日本国首相としての公的立場において行わなければならない」そして、公的に慰安婦システムが全く存在しなかったという主張を反駁しなければならない。

- 日本政府は、慰安婦問題に関する国際社会の勧告に従って、現在と将来の世代に「慰安婦システム」の教育を行わなければならない。


河野談話見直しキャンペーン

安倍晋三が首相に任命された数週間後の2006年10月、下村博文官房副長官は慰安婦案件の新たな調査を指示した。読売新聞は社説で「1993年の河野談話は、性奴隷としての強制性を証明する充分な証拠に裏付けされていない」と報じた。2007年初め、与党自民党議員らは、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」を設立し、中川昭一のような自民党の有力者が支援し、委員会は河野談話の見直しを表明した。中川昭一は2007/3/9に、「現在、軍隊(政府当局で最も強い表現)が女性を連れ去って、彼女らの意に反して強制したと我々に断言させる証拠が無い」と述べている。
2007/2/20に、麻生太郎外務大臣も「慰安婦は軍の職務であったのか」という質問に対して疑念を呈し、同様の所感を述べている。日本の新聞は、総理府が河野談話の修正を検討していることを報じた。2007/3/1には、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が草案を明らかにし、「彼女らの意思に反した雇用が民間業者によって行われた可能性はあるが、軍や他の政府機関によって女性が連行されたことはなかった」という文章を河野談話に付け加えようとしている。更に「(河野談話での慰安婦に対する謝罪の)根拠は元慰安婦への聞き取り調査のみであり、文書化された証拠は発見されていない」という一文を挿入する。加えて、河野談話の「(従)軍慰安婦」という言葉から「(従)軍」を取り除くことを要求している。委員会はこの修正案の公表の際に、河野談話修正の根拠として、米国下院121号決議(H.Res.121 )を引用している。(以下に続く加藤・河野談話を参照。)

安倍首相とその内閣の声明

この自民党の委員会が修正案を用意したこと、米下院が121号決議案(2007年2月中旬に行われたアジア太平洋地球環境小委員会での公聴会を含む)の検討を始めたことを受け、安倍首相と内閣は2007年3月にいくつかの声明を出している。首相の声明は日本国内において支持と批判のいずれも引き出した。うち、いくつかの声明は米国からも批判を受け、トーマス・シーファー米大使は、慰安婦制度の歴史的説明を修正する企ては、アメリカに悪影響を与えることになると警告している。オーストラリアとフィリピン政府も同様の批判を行っている。安倍首相の声明は、以下の主要な特徴を含んでいる。

-  慰安婦の雇用に際して、旧日本軍と政府による、当初断定されたような強制を示す証拠は存在していない。
  
- 明らかに業者によって強制的に採用されたケースはあったが、憲兵が家に押し入り、誘拐のように連れ去った
  ことはなく、慰安婦狩りが行われたとする証言は全くの作り話である。

- 伝えられるところでは、2007/3/5に安倍首相は元慰安婦の証言に触れ、「慰安婦狩りがあったという旨の証言は、完全な作り話である」と答えている。同3/26には元慰安婦の証言を強制の証拠と考えるかという野党議員の質問に対して答えていない。

- 日本政府は下院121号決議の通過に合わせての慰安婦に対する新たな謝罪をする意図はない。

- 安部首相は同時に、慰安婦問題に関するこれまでの日本政府の対応(「日本政府は幾度にもわたって慰安婦に対して謝罪を行ってきた」事実を含む)を継承する意図を表明している。

- 安倍首相は「河野談話を支持する」つもりであろうが、2007/3/16の閣議発言によれば、河野談話が当時の首相宮澤喜一とその内閣、そして1993年以降河野談話を継承してきた歴代の内閣によって公式には承認されていないことを指摘し(談話が閣議決定されていない事実を挙げた)、河野談話の効力を弱めたいようである。

- 安部首相は、アジア女性基金の支援を受けた慰安婦達へ前任者が送った謝罪の手紙を支持している。
前任者には、かつての首相、橋本と小泉も含まれている。「私が前任者たちと全く同じ気持ちを持っていることを明らかにしたい。それはほんの僅かでも変わっていない。」  

- 2007/3/26の国会で、首相としての謝罪を表明し、更に、慰安婦が置かれた状況に対して深い同情と、謝意を改めて示した。

- 同様に、強制性に関する自らの発言を一部修正している。「自ら望んで慰安婦になった者は多分居なかっただろう。広い意味での強制はあった。」

- 2007/4/3のブッシュ大統領との電話会談で、これまでの日本政府が採ってきた一貫した立場、河野談話の継承を明らかにし、慰安婦が受けた計り知れない苦しみと困難に対する心からの同情と誠実な謝罪を表明した。

安部首相の声明と、河野談話に関する日本政府の矛盾は、安部内閣から出された二つの対照的な声明を見ると分かり易い。塩崎恭久官房長官は2007/3/5の発言の中で、河野談話は慰安婦制度への旧日本軍の関与を認めたものであると発言している。慰安婦の雇用は「軍の要請に応じて民間業者が主に行った」としながらも、「時として、軍が直接行ったこともあった」とし、採用に関しては「多くの場合、騙したり、強制するなど、本人の意思に反して行われた」ことを認めた。更に、「政府のスタンスは、河野談話を承認し、継承するのは既に私が説明しているように明白だ」とした。しかし、塩崎のこの声明は、2007/3/16に内閣によって出された次の声明と矛盾しているようにみえる。「河野談話の基礎となった報告書の作成の為に、1991年から93年に使用した文書の見直し」を行い、結果「研究調査の対象となった資料の中には、軍や政府機関が所謂強制連行を行ったことを直接証明する如何なる記述も発見されなかった」と報告している。

安部首相は、河野談話を見直ししようとする自民党の有力者達の意図に比較的肯定的なスタンスを採っている。「党が調査・研究を行うのであれば、我々は政府文書を提供して、必要に応じて協力する」安倍首相はそのように語った。

慰安婦システムに関する証拠

慰安婦システムは日本が1930年代に、中国への軍事的拡張政策を開始した時に現れた。そして1941年12月に日本が米国を攻撃し、日本軍が東南アジアや太平洋西南地域に進出したときに拡大した。彼女らは慰安婦と呼ばれ、その数は5万から20万人と推定される。大多数は韓国人で、残りの大部分は中国人、台湾人、フィリピン人、オランダ人、インドネシア人であった。

慰安婦システムに関する情報は、第二次大戦後、定期的に現れることはあったが、80年代、90年代初頭になるまでシステムの詳細を記述した主要な書籍は現れなかった。その後、かつて日本によって占領されていた国々の政府や国民が、よりオープンな形で議論するようになっていく。1990年代になると、慰安婦問題は日本といくつかの隣国間で、日本が行った侵略行為や占領政策の濫用について、完全に説明したか、という論争の一部となった。日本政府と市民グループ、日本に占領された国々の論争では、いくつかの議題が採り上げられた。
日本は軍と政府が慰安婦制システムを悪用した責任を完全に認めたか。
元従軍慰安婦への日本の謝罪は、十分な公式謝罪であったか。
日本は、元慰安婦に公式な金銭的補償を行わなければならないか。
日本の歴史教科書が、第二次世界大戦の章で、慰安婦システムを記述すべきか。

慰安婦システムのオペレーションに関して、1990年代と2000年代に一定量の事実が浮上し、明らかとなった。主なものは以下の通り。

- 吉見義明博士は1992年に防衛研究所図書館で、1930年代終わり頃の占領下・中国での旧日本軍の慰安婦システムに関する文書を発見し公開した。吉見博士はそれらを日本の主要紙の一つである朝日新聞に渡し、1992/1/11に特集記事として掲載された。博士は1995年に『従軍慰安婦』を岩波書店から出版。

- 1990年代に後期に台湾 Academia Sinica の歴史教授である Chu Te-lan によって発見された文書は、慰安婦システムに関する日本軍、台湾総督府、台湾開発会社の関係を記述している。

- 米戦時情報局の1944/10/1の報告書に、連合軍が北ビルマのミッチーナを日本から奪還後の1944年8月に、現地で発見された20人の朝鮮人慰安婦の聴き取り調査が記載されている。(The report is in the U.S. National Archives.)

- アメリカ人宣教師 Horace H. Underwood が日本によって1942年8月に本国送還された後、アメリカ政府に朝鮮での慰安婦の採用について報告している。(The report is in the U.S. National Archives.)

- アメリカ戦略局(OSS)の1945/5/6の報告書では、中国の昆明で行った23人の朝鮮人慰安婦の聞き取り調査がある。彼女らは仕事をしていた日本軍部隊から逃走、1944年9月に中国国境に到達した。(The report is in the U.S. National Archives.)

- 1992年の韓国外務省報告では、朝鮮での慰安婦システムに関する旧日本軍の文書を引用している。

- 日本占領下オランダ領東インドに於ける、オランダ人女性への売春強制に関するオランダ政府の研究報告書。1994年公開。また、オランダ公文書館の文書AS5200には、オランダ人女性への戦争犯罪に関する日本人容疑者への尋問の記録、オランダ人とユーラシア人慰安婦の証言、日本軍によってジャワに設立されたオランダ人女性収容キャンプの運営者の証言、及び、収容されていた女性の証言が含まれている。 AS5200には1947年と1948年にオランダ軍によって開かれた慰安婦事件に関する戦争犯罪法廷の裁判記録が含まれている。

- 1992年から1993年の日本政府による日本の省庁や政府機関の文書の調査、元慰安婦、元日本兵への聞き取り調査、日本占領時代の朝鮮総督府官僚への聞き取り調査、慰安所の運営者への聞き取り調査。この報告書が河野談話の基礎になった。

- 韓国人、中国人、台湾人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人の慰安婦による数百の証言。 これらの証言の多くは2002年に出版された「Japan's Comfort Women」(田中ゆき著)に記述されている。証言をした400人を超える女性への言及がある。

これらの文書と報告書は、慰安婦システムについて日本国内で、そして、日本と他の数か国間で議論されている3つの問題に関する情報を提供している。

(1) 慰安婦システムを作った日本軍と政府の関与の度合い。証拠は、日本政府と軍が慰安婦システムを直接作ったことは明白であるとしている。河野談話の基礎となった1992年から1993年の日本政府の報告書では、各地域で軍当局者が慰安所設立の過程に関与したことを認めている。そして軍は慰安所の創設を手助けし、彼らの運営のために規制を施した。Chu Te-lanによって発見された台湾の文書は、日本の中国侵略を支援する目的で、台湾総督府が台湾開発会社の設立をしたことが記述されている。1939年までに、台湾総督府は台湾開発会社に指示して台湾人慰安婦を雇用させ、中国の海南島へ送っている。海南島では、日本軍は62の慰安所の建設を含む台湾開発会社の全ての活動を監督した。吉見博士の文書によれば、在中国の日本軍部隊は1937年の侵攻に伴って、北部、中央部に慰安所を設立するプロセスを始めたと確証している。その文書の一つである1938年7月に北部の軍司令官から出された命令の下で、方面軍に所属する各部隊に対して「早急に性的慰安の施設の供給が非常に重要である」と記されている。1992年の韓国外務省の報告は、慰安所の設立に関する在朝鮮日本軍からの類似した命令を引用している。

(2) 日本軍は慰安婦の雇用と移送に関与したのか、また日本兵に性行為を提供する「慰安所」の管理に関与したのか。
証拠はシステムの運営において、すべての段階での日本軍の関与を示している。慰安婦の雇用、輸送、慰安所の運営に於いて。証拠は日本の現地政府がしばしば台湾開発会社のような私企業と慰安婦の雇用に関して契約を結んでいた事を証明している。ビルマのミッチーナで米軍の聞き取り調査を受けた朝鮮人慰安婦は、雇用時にサインした契約書に、彼女らが日本軍の規制の対象になることが記されていたと述べている。1938/3/4付の吉見博士の文書の1つは、日本軍省から北部中国地域軍へ送られたもので、「軍慰安所で従業する女性の募集に関する件」と表題が付けられている。以下の記述がある。「遠征軍は採用を管理する。そして、委託される業者の選定は慎重に、且つ、適切に行われなければならない。実施に関しては、関連した地方の憲兵隊と警察当局と連携を密に行い、そして、最大の配慮を払い、軍の尊厳を保って、社会問題を避けるように行う」
(表題:「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」本文:「募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局 トノ連繋ヲ密ニ以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」)
特筆すべきは、この文書に陸軍省次官梅津美治郎の印があることだ。梅津は後に陸軍参謀総長となり、第二次世界大戦最後の年には、戦時内閣で陸軍の代表を務めていた。彼は1945/9/2に戦艦ミズーリ上で日本軍の降伏文書にサインをした。他の吉見の文書には、日本軍が中国北部に設立した慰安所が、日本軍現地司令官の監督下にあったことが記されている。地方に設けられた慰安所の多くが、しばしば「オヤジ(マスター・舎監)」と呼ばれる民間人によって運営されていたことは証拠がある。しかし、軍の現地司令官は慰安所の運営に関して、営業時間、上官と下士官が顔を合わせないで済む時間の振り分け、憲兵の駐在、健康診断と治療に関する細かな規制を決定していた。ミッチーナの朝鮮人慰安婦は米軍士官の質問に対して、このような規制について述べていた。1993年の日本政府の報告書では、慰安所の運営について、この点を重視し記述している。

(3) 慰安所へ連れて来られ、働いた女性達は、自発的に来たのか、否か。これは女性を雇用するのに使われた方法、そして慰安所での女性の地位に関係がある。安部首相の声明と下院121号決議では、この件を描写するのに「強制 coerce/coercion」という単語が用いられている。アメリカン・カレッジ・ディクショナリー では、強制 coerce/coercion を「力ずくで何かを強いること」、或いは「そのような制約」と定義している。400人以上の証言を引用した、田中ゆきの「Japan's Comfort Women」では、200人近い女性が、日本軍や憲兵、又は軍のエージェントによる強制連行について述べている。これは特にフィリピン人、中国人、オランダ人女性に対して当てはまる。1993年の日本政府の報告書でも、「業者は多くの場合、女性に対して甘言や脅迫を用い、彼女らの意思に反して雇用した」と記述されている。伝えられるところでは、報告書には「様々なケースがあった。ビジネスとして、軍に要請されて、甘言で騙されて、又は力ずくで」と書かれている。

フィリピンと中国の女性による証言や日本軍の文書でも、日本兵による現地女性への強姦が拡大していたことが記載されている。前述した中国北部軍の参謀総長からの命令にも、「多くの場所で日本兵による強姦が広がっている」ことについての言及がある。強姦は明らかに日本軍と中国軍、又は日本軍と1943年から1944年に出現したフィリピンゲリラとの間に、大規模な戦闘があった地帯で数多く発生していた。現地の日本軍部隊はフィリピン人や中国人の少女を誘拐し、数週間から数ヶ月に渡って監禁し、強姦を繰り返したことが報告されていた。オランダ政府の文書には、1942年に日本軍がオランダ領東インドに侵攻した直後に、日本兵による強姦の被害を訴えるたくさんのオランダ人女性の証言が記録されている。

強制的な徴用は、オランダ政府の戦争犯罪法廷で罪を問われた記録が残されている。オランダ公文書館の文書AS5200、1994年の「日本占領下オランダ領東インドでの、オランダ人女性の強制売春に関する政府文書研究報告書」もそうした記録である。日本軍が強制的に軍の監督下で、捕虜収容所からオランダ人の女性を連れ出し(時々抵抗されている)、慰安婦となることを強要したいくつかのケースを、文書や報告書が記録している。多くの日本軍士官が戦争犯罪法廷で、オランダ人女性に対する罪で有罪となっている。同様に、ユーラシア人やインドネシア人女性の強制徴用の記録もある。

証拠によると、軍または軍と契約した売春斡旋業者は、慣例的に嘘を吐いた。ミッチーナの朝鮮人女性は、米軍の聞き取り調査に対して、自分達やビルマにいる他の朝鮮人女性達は、負傷した日本人部隊をケアするために、シンガポールの病院で働くことになると業者から聞かされたことを証言している。

中国・昆明に居た朝鮮人女性の多数が、自分達と他の300人の朝鮮人慰安婦は、朝鮮の新聞で、シンガポールにある日本の工場の求人広告を見て就職したと証言している。昆明のOSSの報告書は「23人の女性は全員、明らかに強制と嘘によって慰安婦にさせられた」と結論している。元慰安婦達による他の証言の多くにも、業者の嘘が記されている。韓国外務省の報告でも、日本人や契約業者が嘘を吐くのが一般的であったと言及している。アメリカ戦時情報局は、日本軍による1941/12/7の真珠湾攻撃まで朝鮮に居たアメリカ人伝道師・ホーレスH.アンダーウッドの報告を発表している。彼は「様々な方法を使って、たくさんの朝鮮人少女に売春を斡旋し、満州と中国の売春宿に送った」と語り、これこそが朝鮮人達の「尽きない憎しみの原因」であると説明している。業者は、見せ掛けの説得と脅迫を組み合わせて用い、日本の認可を受けた金融業者に多額の借金をしている家庭の少女を狙った。ミッチーナの朝鮮人女性は、ボランティアで病院で働くことは家族の借金を完済する一つの方法であると業者が言ったと証言している。田中ゆきの本で引用されている強制連行ではなかった女性の証言の多くは、業者による同様の慣例的な嘘を記述している。

ミッチーナの朝鮮人女性の証言や、ほかの証言は、一度慰安所に女性が到着すると、日本軍が解放するか、帰宅を許可するまで労働しなければならなかったことがはっきりと分かる。この朝鮮人女性達は、軍が1943年にミッチーナで何人かの朝鮮人女性を解放したことを証言している。しかし、彼女らの証言や他の多くの女性によれば、たくさんの女性達が第二次世界大戦の間、慰安所にいたことを伝えている。日本軍が、自発的に朝鮮へ帰ることを許さなかった為に、日中戦争の最前線を横切る危険なコースを選んで逃げ出したことを、昆明の朝鮮人女性達の物語が説明している。

慰安婦採用時に於ける強制の有無に関する2007年の論争は、慰安婦が自分の意思で就業したか否かという広義の議論を曖昧なものにした。もし、嘘の労働条件によって就業したことを非自発的と定義するのであれば、現在入手可能な資料からは、ほとんどの慰安婦は非自発的に就業していたということに疑う余地が無い。このシステムは、女性が本当に自発的に就労するような性質の職業ではないように思われる。

1992年の加藤談話と1993年の河野談話

1992年の吉見文書の公開は、1991年から1993年の間に行われた日本政府独自の調査へと繋がって行く。その調査結果として、政府公式スポークスマンである内閣官房長官は、1992と1993年に2つの声明を発表した。加藤紘一官房長官が1992/7/6に発表した最初の談話の主要な点は以下の通り。

- 日本政府は「慰安所の開設、慰安婦として雇用された人の管理、慰安所の設備の建設や増築、慰安所の管理と監視、慰安所及び慰安婦の衛生管理/健康管理、そして、慰安所の関係者に関する他の文書と同様に、身分証明の発行にも関与した。」

- 「国籍または出身地に関わりなく、政府は改めて所謂「戦時慰安婦」として、言いようのない困難で苦しんだ全ての方々に、誠実な謝罪と後悔を表明したい」

河野洋平官房長官は1993/8/4に政府の談話を発表した。主要な点は以下の通り。

- 「非常に多くの慰安婦が存在した」

- 「慰安所は当時の軍当局の要請に応じて運営され、軍は直接または間接的に、慰安所の設立と管理、そして、 慰安婦の移送に関与した」。

- 「慰安婦の採用は、主に要請を受けた民間業者によって行われた」

- 「慰安婦は多くの場合、甘言や脅迫などによって、本人の意に反して採用された。軍あるいは政府の人間が採用に直接関与することもあった。」

- 「慰安婦は強圧的な雰囲気の慰安所で、惨めな生活を送っていた」

- 「従軍慰安婦の大部分は朝鮮人だった」

- 「(日本)政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」(原文より)

アジア女性基金

1992と1993年の談話により、日本の政府官僚は、生存している慰安婦を援助する意向があることを表明した。政府の採った対応は「アジア女性基金」である。社会党員である村山富一首相が準備し、1995/7/19に設立した。アジア女性基金は、支援を申請した元慰安婦に対して、3つのプログラムを用意した。
(1) 元慰安婦1人当りに200万円(約2万ドル)の「償い金」が支払われる。(2)1人当り250-300万円の医療と福祉サポート、そして(3)各受領者への日本国内閣総理大臣からの謝罪の手紙。

償い金は1996年から活動を停止した2002年迄、直接元慰安婦へ支払われた。その間、285人の元慰安婦に対して、5億6500万円(約570万ドル)が支払われた。医療サポートプログラムは、いくつかの国では活動を停止した2002年以降も続けられている。2006年3月の時点で、アジア女性基金はこれらのプログラムに対して、韓国、台湾、フィリピンに合計7億円(約700万ドル)を、3億8000万円(約380万ドル)をインドネシアに、2億4200万円(約240万ドル)をオランダに提供している。アジア女性基金は2007年3月に活動を終了する予定である。

アジア女性基金のプログラムでは、日本政府が直接金銭を提供する点が議論となった。1995年から2000年迄の間に、日本政府はアジア女性基金の運営費用として合計350億円(約3500万ドル)を支出した。更に医療サポートプログラムの費用も支出している。しかし、日本政府は「償い金」を支払うことは拒否した。償い金は日本人の個人的な募金によって賄われた。2004年5月の日本外務省の声明によると、アジア女性基金は5億9000万円(590万ドル)を私設献金から集めた。献金者は、個人、企業、労働組合、政党、閣僚らが含まれる。政府は資金を集める為のアジア女性基金キャンペーンには支出している。政府の直接補償の支払いに関する立場は、1951年に連合国との間で結ばれた平和条約(サンフランシスコ講和条約)に従っており、賠償金を支払う場合は、直接占領された国と連合国に対して支払わなければならず、起こり得る個人補償については、この資金から支払われることになっている。日本は同様の条約を、いくつかの、かつて占領された国々と結んでいる。報道によると、日本政府は元慰安婦に直接的な補償を行うことによって、第二次大戦中に受けた被害について、同様の補償を要求してくるグループが現れることを危惧しているということである。しかしながら、日本政府が直接補償を行わないことは、慰安婦システムについての全責任を積極的に行う意志が無いことを表しているとして批判を受けた。

元慰安婦への内閣総理大臣からの謝罪の手紙

1995年7月にアジア女性基金が設立された際、村山首相は基金の支援の受領者に謝罪の手紙を送れることを約束した。彼は慰安婦システムを、「国家の過ち」「全く言い訳できない」ものと評した。しかし、次の首相となった保守的な自民党の指導者、橋本龍太郎は96年に首相に就任すると、最初の償い金の支給を履行する準備をしていたアジア女性基金に対して、そのような手紙を書くつもりはないと拒絶した。橋本首相は基金の役員から強い批判を受けた。三木武夫元首相夫人の三木睦子は、これに抗議して役員を辞任した。橋本首相は1996年7月に態度を変え、同8月に最初の謝罪の手紙を書いている。同様の手紙が4人の首相によって(橋本、小渕、森、小泉)アジア女性基金からの償い金の受領者に対して送られている。手紙の内容は以下の通り。

- 「日本国首相としての発言/謝罪である」

- 「慰安婦案件は、当時の日本軍官憲関与の下に行われた、たくさんの女性の名誉、尊厳に対する深刻な侮辱行為であった」

- 「(首相は)慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ち(を表明する)」

- 首相は手紙の受領者個人にだけでなく、全ての元慰安婦に対して謝罪を表明している。

- 「わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」
  この手紙で使われた「おわび」という言葉は日本語として罪を認めた極めて強い意味を持った言葉である。


アジア女性基金に対する外国の反応

1996年から2002年の間にアジア女性基金から償い金を受け取った元慰安婦は285人で、生存している元慰安婦の僅かな割合であることは疑いようがない。更に、うち200人近くがフィリピン人とオランダ人である(79人がオランダ人、100人以上がフィリピン人であると推定されている) オランダ人は例外として、アジア女性基金は受領者に関する情報を公表することに、極めて慎重である。台湾人受領者ははるかに少なく(約40人)、特に韓国では非常に少ない。この理由は3つ考えられる。1つは社会的な「汚名」。補償を申請することによって、元慰安婦であったことが広く知られてしまう。これはアジアの社会に顕著である。2つ目は何人かの元慰安婦が、特に数か国で組織している団体のメンバーだが、日本政府による正式な賠償ではないことを理由に、公然と償い金の受取を拒否している。3つ目の理由は、政府やNGOから、アジア女性基金からの償い金や他のサービスを受け取らないようにと、圧力や、時として脅しを受けていると考えられるものである。この要因は、特に韓国に於いて顕著なようである。

1993/3/29に、韓国政府は生存している元慰安婦に対し、6400ドル相当の金銭と、ひと月に250ドルを支給する計画を発表した。しかし、アジア女性基金の設立後、韓国政府とNGOは、アジア女性基金からの償い金や他のサービスを受け取らないように圧力を掛けたり、その為の道具としてこの補償計画を利用した。韓国政府は、1997年1月にアジア女性基金が7人の元韓国人慰安婦達へ償い金の支払いを開始すると、すぐに反対する態度をとった。日本政府に対して公式に不快感を表明し、直接的な賠償をするように要求した。また、韓国政府は元慰安婦達を代表していると主張する主導的なNGO団体が、政府と同じ立場を取っている事を理由に支援を始めた。「日本により軍性奴隷にされた女性のための韓国会議」や「日本軍慰安婦強制徴用解決のための市民連合」などの団体である。彼らはアジア女性基金から償い金を受け取った7人の元慰安婦達を厳しく批判した。1998年3月に、韓国政府はこれら市民団体の勧告を受け、基金を拡充し、支払う補償金を増額すると表明した。韓国人官僚は、この基金の意図は、元慰安婦達がアジア女性基金からの支援を受けないようにする事であったと述べ、更に、受け取らないことが、韓国政府の基金に支援を申請する必要条件となった。前述した2つの市民団体は、アジア女性基金から支援を受けた女性達に対して反対するキャンペーンまで行った。韓国政府は元慰安婦に支給する補償金を増額したが、それはアジア女性基金から如何なる支援も受けないと誓わなければならない条件付きのものであった。 結果は1997年1月に最初の7人の元慰安婦達が償い金を受け取った以降は、一人としてアジア女性基金に支援を申請した者は居なかった。報道によれば、アジア女性基金は当初の予定であった2002年迄の5年間を越えての支援の継続を模索していたが、結局、韓国政府とNGOの反対で、支援プログラムを部分的にではあるが終了することとなった。

1998年3月以降韓国政府の基金は、受給資格を持つ元慰安婦1人につき43000ドルを生活費として一括して支払い、更に追加の分配金として毎月1人につき740ドルを支給した。基金は慰安婦個人への医療費の支給も行った。このように、韓国の基金は1998年3月以降、アジア女性基金より気前良く直接補償を行ったが、2006年3月時点で、たった208人しか補償の申請を行っておらず、政府の担当者が元慰安婦として認定し、受給資格を認めたのは、うち152人に留まった。現在、基金から支援を受けている女性は124人である。派手に宣伝された韓国政府の基金に申請した人数が極めて少なかったことは、大部分の慰安婦は日本政府の基金に申請したかったのか、自国政府の補償計画に申請したかったのか、それとも、自ら慰安婦であった過去を明かすことによって受ける社会的な烙印がそれを躊躇させるのだろうかと疑念を生じさせる。

台湾では独自の補償基金が1996年に設立された。台湾政府と民間組織である台湾女性救援財団(TWRF)がその資金を提供した。この基金は元慰安婦に対して1人に付50万新台湾ドルを支払ったが、この額はアジア女性基金の償い金とほぼ同額である。台湾政府とTWRFは日本政府が公式な補償をすべきと主張している。推定で40人の台湾女性がアジア女性基金からの援助を受けていると考えられる。しかし、アジア女性基金に対する反発は韓国のようには起こらなかった。基金のプログラムは期間中に台湾の新聞で宣伝された。

アジア女性基金はフィリピン、インドネシア、オランダでもプログラムを実行した。これらの国々では基金の多くは日本政府から出資され、慰安婦のためのより広い社会福祉に使われた。フィリピン大統領フィデル・ラモスは、この基金は法律的には私的なものであるが、フィリピン人元慰安婦の役に立つと語った。1995/1/15には、アジア女性基金とフィリピン政府は、元慰安婦のための医療福祉支援プログラムに関する覚書にサインをした。これらは5年以上に亘って、フィリピン政府の厚生省によって実行された。しかし2つのNGO団体がアジア女性基金からの償い金を受領すべきかを巡って対立した。LILA Pilipinaは公式に日本政府に対して支払いを要求したが、女性達がアジア女性基金へ申請を行う支援をした。一方、Malaya Lolasは拒絶した。100人以上のフィリピン女性達が基金から償い金を受け取ったと推定されている。

1997年3月にアジア女性基金は、インドネシア厚生省と「老人の為の社会福祉プロモーション」という、インドネシア政府のプロジェクトへの財政支援について覚書を交わした。アジア女性基金の財政支援は、10年以上に亘り総額3億8000万円(約3800万ドル*原文通り)に達し、老人の為の施設を支援するというものであったが、元慰安婦に優先順位が与えられていた。インドネシア政府は、女性がこの支援を受けるのを歓迎し申請を承認した。2004年5月の日本外務省の発表によると、200人がそれらの施設に収容された。

アジア女性基金は当初、「日本の名誉ある負債のためのオランダ財団(FJHD)」という慰安婦を含むオランダ人の戦争犠牲者のNGOと交渉したが、FJHDは基金による補償を拒絶した。オランダ政府の支援の下、アジア女性基金は他の民間団体である「オランダにおける計画実行委員会(PICN)」と元慰安婦の生活を支援するための覚書を締結した。このプロジェクトは医療その他の社会福祉を彼女らに提供した。3年間に亘って、アジア女性基金は、2億4150万円(約2400万ドル*原文通り)をこのプロジェクトに費やし、79人の女性を支援した。

最初の下院決議である759号は(H.Res.759)、日本政府に対し国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告に従うように要求した。今度の121号決議(H.Res.121) は、日本政府に対し「国際社会」の勧告に従うように要求している。国連人権委員会は1990年代に数回、従軍慰安婦問題を調査した。国連特別報告官が1996年と1998年に人権委員会に提出した二つの報告書は、日本を批判し、元慰安婦に対して公的な補償を行い、慰安婦制度の責任者を訴追するように要求している。しかし、人権委員会は報告書を承認はしたが、決議の際には記載されている勧告を完全に支持しなかった。2001年9月に委員会は、日本に対し「第二次世界大戦の犠牲者に対して補償する」よう勧告した。国際人権組織であるアムネスティ・インターナショナルは、アジア女性基金を批判し、日本に対して元慰安婦に公的な補償をするように要求している。

日本の教科書での慰安婦問題

慰安婦システムに対する日本の責任を認めて以来、日本の歴史教科書が慰安婦について論ずるべきかどうか、頻繁な議論があった。今日慰安婦問題に関して、日本国内で本当の戦いになっているのは、歴史教科書について載せるべきかどうかである。日本の文部省は1997年に何冊かの新しい中学校教科書に「強制的徴用」に基づく性奴隷制度という認識で、慰安婦を論ずることを許可した。20世紀前半の日本の歴史記録が、通常描写されるほど否定的でないと主張する一部の政治家と研究会から、この決定と教科書の出版に激しい批判を行った。日本の歴史に対する肯定的な見方を提示する歴史教科書の出版作業のために「新しい歴史教科書をつくる会」が結成された。2001年に承認された8冊の歴史教科書が慰安婦について触れていないのは疑いもなく「新しい歴史教科書をつくる会」の批判とキャンペーンの結果であった。いくつかの予定されていた日本との交流事業をキャンセルすることによって、韓国政府は抗議の意を表した。2005年に承認された8冊の新しい教科書は、慰安婦についての言及を省略し、触れているのは1冊のみとなった。中山成彬文部科学大臣は、教科書の慰安婦についての説明は「不正確であった」と述べ、この決定を支持した。しかし日本政府は、2006年に承認された高校の歴史教科書16冊、又は18冊が、特に慰安婦に言及していると主張した。しかし同時期に、日本、韓国と中国の研究者で構成された委員会は、韓国の日本の占領(1910-1945)と、日本の侵略に関する満州と中国(1931-1945)の60ページもの記述を含んだ歴史教科書を出版した。慰安婦問題に関する詳細な議論も含まれている。上述している2001年9月の国連人権委員会の日本に対する勧告では、日本の学校教科書や他の教材において「公平で均衡を保った方法」で歴史を教えるように要求している。

日本、アメリカの法廷での慰安婦訴訟

1991年に3人の韓国人女性が日本の裁判所で告訴して以来、元慰安婦を名乗る女性達が何度か訴訟を起こしている。1998年の地方裁判所での勝訴を除き、日本の裁判所は日本政府による金銭的な補償を却下している。日本がいくつかのアジアの国々と結んだ補償に関する条約を引用し、1951年締結の平和条約(サンフランシスコ条約)と1965年の日韓基本条約に従って結論を下している。平和条約は日本に領土を占領されていた連合国と、補償に関する協定を結ぶよう日本に命じており、「この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。」(第5章 第十四条【賠償、在外財産】(b))と定めている。
1965年の日韓基本条約も(正しくは付随協約: 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)「1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951/9/8にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」(第2条 1) としている。にも関わらず、2005年の国連とアムネスティ・インターナショナルの報告書は日本政府に対し、元慰安婦への直接補償を要求している。一方、連合国出身者の個人訴訟を請け負う弁護士は、1951年に日本政府とオランダ政府の間で交わされた書簡に、「平和条約は、オランダ国民から日本に対して個人補償が求められた場合、これを否定しない」と述べられていることを指摘している。

2000年9月に、中国、台湾、韓国とフィリピン出身の15人の元慰安婦は、ワシントンD.C.で米国地方裁判所で訴訟を起した。米国外国人不法行為法に基づき、日本政府に対して請求権(金銭的な補償の要求を含む)を求めた。この訴訟は、「Joo対日本」と名付けられた。地方裁判所とコロンビア特別区の米国控訴裁判所(高裁)は、女性達の訴えを退けた。1951年に締結された平和条約の規定の観点から、日本に対する個人補償の要求が有効かどうかの判断は「政治的問題」であり、裁判所よりも行政府に管轄権があるとする行政府の意見を取り入れた為である。2004年7月に連邦最高裁判所は、控訴裁判所に差し戻す判決を出した。2005年6月に控訴裁判所は、地方裁判所の最初の判決を確定した。その後再び最高裁へ送られたが、女性達の訴えは司法的なものではなく政治的問題であり、裁判所がこのような要求を受け入れることは外交関係を指揮する大統領の権限の侵害に当たると判断、行政府の決定に委ねる旨の判決を2006/2/21に下した。

結論

1992年以来、第二次大戦以前とその間に、当時の日本政府と軍が慰安婦システムの創設と管理において果たした役割を日本政府が完全に認めていることに疑問の余地はほとんどない。しかし、論争を招いた安倍首相の2007年3月の声明以前に於いても、例えば小泉首相の靖国神社参拝(ここには日本の戦死者が祀られているが、14人の主要な戦犯も合祀されている)、歴史教科書の内容、先に挙げた文部大臣の発言のような日本の政治的指導者の個人発言などの、日本の歴史記録についての関連する議論を見る限り、認めたことの説得力が多くの人の目から見ても弱められていると言える。承認をめぐる論争は歴史教科書の記述をメインテーマとして今日も続いており、歴史教科書から慰安婦システムに関する記述を減らす傾向は、日本の首相から慰安婦に送られた手紙にある「過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」ことに疑念を生じさせている。

慰安婦問題は、日本人がどのように1930年代と第二次世界大戦中の日本を見なければならないかという、より幅広い議論の一部である。自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」に代表される日本の歴史修正主義者達は、この期間に日本が行った大罪を赦免したいと狙っているようである。歴史修正主義者に反対する人々は、日本は否定的な事実に関しても認めるべきであり、これらを次の時代に伝えていくべきであると主張している。こうした論争の最近の例として、高校の歴史教科書から沖縄戦(1945年4月-6月)の間に発生した、数千人の集団自決に於いて日本軍が果たした役割についての記述を削除するように文部科学省が指示した事例が挙げられる。

アジア女性基金は、日本政府と基金の出資者及び指導者たちによって元慰安婦に対する補償と支援を行い、真摯な努力を続けてきたと言える。既に触れたように、数か国の政府はアジア女性基金と協力することによって、これを受け入れたように見える。

アジア女性基金の償い金支払 vs日本政府による金銭的補償(の要求)という議論は、主に、法的議論 vs 道徳的議論という問題と考えることができる。日本政府は平和条約、数か国との補償協定、1965年の日韓基本条約の約款を基に、確固とした法的立場を採っているようである。「Joo対日本」で米最高裁判所が2006年2月に下した判決は、日本政府の立場を強化したと言える。しかし、公式補償の要求は強い道徳的な要素がある。アジア女性基金の擁護者でさえ、ドイツの例に倣って民間と政府が合弁した追加の基金を組織し、他の虐待を受けた人々、戦争捕虜や強制徴用者に対して補償を行うことが出来たと主張する者も居る。日本政府は慰安婦に対する公的補償が、被虐待を主張する他の人々からの賠償要求という、パンドラの箱を開けることになるのではないかと懸念を示している。この可能性はいくつかの不確実性を開く。1945年のアメリカによる日本の都市へのナパーム弾爆撃と(1945/3/9の東京大空襲で始まり推定で8万人以上の日本人を殺害)、1945年8月の原子爆弾の投下に関して、日本がアメリカに公的賠償請求を行い、反撃する可能性を含んでいる。

日本政府は、慰安婦への公式な謝罪として2つの文章を用いている。1993年8月の河野談話とアジア女性基金からの支援を受け入れた元慰安婦に対する日本国首相からの手紙である。首相からの手紙では、書き手は「日本国の首相として」述べている。この手紙は全て同一の内容であるが、「おわび」という言葉が用いられ、それは単に手紙の受け取り手だけにではなく、全ての慰安婦に向けられている。これを不適切であるとの批判があるが、不適切と考える理由は明らかにされていない。一部の批評家は、謝罪の適当な方法として国会決議を提案したが、全会一致の決議の見込みは希薄である。

2007年3月に安倍首相が出した声明のいくつかは、河野談話と首相からの手紙を再確認したものも含め、承認と謝罪の流れを維持している。しかし、他の声明は河野談話と首相からの手紙の要素と矛盾して見える。彼は「募集(雇用)」という慰安婦システムの1つの面だけを強調して、このシステムの他の面(移送、慰安所の設立と管理、慰安所での女性の管理)で日本軍が果たした深い役割を矮小化しようとしている。とりわけ朝鮮に於いては、軍は募集の大部分については直接行っていなかったのかもしれない。しかし安倍首相の募集に於ける軍の強制に関する全ての証拠の否定は、1992-1993年の政府報告書の編纂者へ語られた元慰安婦達の証言、田中ゆき著「Japan’s comfort women」に記載されているアジア諸国出身の元慰安婦約200人の強制徴用についての証言や、400人以上のオランダ人の証言と矛盾することになる。

安部内閣と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の間では、慰安婦の証言の信頼性が議論の主要なポイントになっているようだが、一方で、河野談話と1992年から1993年の政府報告書も、重要なポイントとなっているようである。どちらも部分的には元慰安婦達の証言がベースとなっている。河野洋平現衆議院議長は2007/3/30に、1993年の談話は16人の元慰安婦に対する政府の聞き取り調査に基づいており、元慰安婦達は「過酷な体験をした者でなくては語れないような説明を繰り返した」と述べた。反対に、2007/3/16他の安倍内閣の声明と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の声明は、強制の確たる証拠は無いとし、そのような証言を信頼すべき証拠として認めないようである。先にも述べたが、報道によれば、安部首相は国会議員に元慰安婦の証言を信頼できると思うかどうかと質問を受けた時、何も答えなかったという。安部内閣と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は、主に朝鮮の状況に立脚しているように見受けられる。朝鮮では慰安婦の雇用の大部分は市民の業者によって行われたようであるが、業者は身体的な強制ではなく、嘘と家族への圧力を用いて慰安婦を雇用していた。(一部の元慰安婦は誘拐されたと主張している) 加えて、強制的な雇用の証拠はなかったという主張は、オランダ領東インド(現インドネシア)での、7人の日本軍士官と4人の軍属による、オランダ人と他の女性に対する売春強制と強姦事件に関して、オランダ戦争犯罪法廷で下された事実認定と判決(3人の死刑を含む)を無視するか、拒絶しているように思われる。これは安倍政権が、1951年締結の平和条約第11条を否認しているのではないかという、潜在的に非常に重要な疑念を生じさせる。第11条は以下のように定めている。「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾(する)」

他に、慰安婦の証言を拒否することの明白な成り行きとして、1970年代から始まった北朝鮮による拉致事件に関する国外からの支援が受け辛くなることが考えられる。2007/3/24のワシントンポスト紙は「安倍晋三の二枚舌」という論説で、拉致事件の北朝鮮への責任追及に対する安倍首相の強い思いと、第二次世界大戦中に何万人という女性を強制連行、強姦、性奴隷化したことの日本の承認と責任を取り消そうとする動きを「安部首相の二重のキャンペーン」として対照的に描き出した。この論説は「もし安部首相が拉致された国民の運命を知る事に国際的な支援を求めるのであれば、首相は日本の犯罪に対する責任を直接的に認め、彼が中傷している犠牲者に対して謝罪を行うべきである」と断言している。このように日本政府が100人以上の元慰安婦の証言を認めないのであれば、外国人にとっては北朝鮮による拉致事件の信頼性に対しても疑問を抱かざるを得なくなる。

首相の矛盾した声明は、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の主張を支持しないとしても、懐柔することを狙っているように思える。彼らは河野談話を修正するか、削除したいと考えており、恐らく慰安婦システムに対するいかなる責任からも軍を赦免したいと考えている。これらの国会議員が発表している研究や、それに対する日本のメディアや大衆からの反応は、今後の日本に於ける歴史修正主義者の影響を図る重要な目安になるだろう。

慰安婦に関する議論の多くが見過ごしている問題は、連合国や占領下にあった国の元慰安婦がアジア女性基金から償い金、或いは支援を受ける時に、適度な自由度で判断できたかどうかという問題である。フィリピン、インドネシア、オランダでは充分に自由な判断ができたようであるが、台湾では慰安婦に思い留まらせるような働きかけがあり、韓国ではアジア女性基金からの支援を受け取らないよう脅迫が行われた。韓国政府は元慰安婦に対して独自に潤沢な支援を行ったとはいえ、1997年にアジア女性基金の支援を求めた韓国人女性に対して、韓国政府とNGOは独自の支援を行うことを理由に、他の手段も用いて圧力や脅迫を行った。アジア女性基金が「公的な」ものではないのでほとんどの元慰安婦は支援を拒絶し、結果として「非常に少ない」人数しか支援を受けようとしなかったことを理由に、韓国の新聞はしばしばアジア女性基金を中傷している。韓国政府と同様に、新聞も1997年に政府が慰安婦を脅迫したことを否認し続けている。

最後に、アジア女性基金の記録と韓国政府、台湾政府の基金の記録は、これらの基金に応じて進み出た人数が500人を超えるほど多くの元慰安婦達から反響を引き出した補償/支援のプログラムは他には無いであろうことを示唆している。元慰安婦としての過去を明らかにして社会的烙印を押されることが、多くの女性に前へ進むことを躊躇わせたようである。