私の理想の政治家は【晏子春秋】の晏嬰、【貞観政要】に出てくる李世民、そして【史記】に出てくる子産です。
(みんな中国の古典に出てくる人物ですね。狭量の排外主義の連中が聞いたら怒りだしそうですね笑)
今回はその中から【史記】に出てくる子産とはどんな人物なのか?
ご紹介させていただきます。
今から2500年ほど前、中国春秋時代の鄭という国に子産という名宰相が登場しました。
子産の政治の特徴は剛と柔、つまり厳しい部分と優しい部分のバランスがよく取れていました。
このような手法によって子産は鄭の国を安泰に導きました。
【厳しい部分】
子産が宰相を務めた鄭という国は他の国に比べて小さな国で大国と対峙して生き残るためには、何より国力を充実させ国家として強化させることが一番の課題であった。
子産は様々な手を打って農業の振興策を講じる一方、軍事費を確保するために新しい税金の取り立て制度を導入しました。
この時国民は負担のつらさに耐えかねて
「子産など殺してしまえ!」
と、怨嗟の声が国中に満ちました。
重臣たちはごうごうたる非難の声に耐え兼ねて中止を進言しました。
しかし、子産はその声には一切屈せず
「国の利益になる事なら好みを犠牲にしても構わない。私はこう聞いている。
善を行うならあくまでもやり抜く、そうでなかったらせっかくの善も役に立たぬ、と。
国民の非難を受けたからと言って改めるわけにはいかぬ。私は断固としてやり抜くつもりだ。」
こう言って子産はあくまでも政策の貫徹を図った。
しかし、3年、5年と経つうちに、農業の振興策が軌道に乗って国民の生活も向上していくと、当初は子産を殺してやれと息巻いていた国民も、次第に子産の政治を善性と讃えるようになった。
このように非難に屈しないで自ら確信する政策を貫徹するやり方が剛の部分。
【優しい部分】
鄭の国には昔から指導者の養成機関として各地方に「郷校(きょうこう)」と呼ばれる学校があった。
この「郷校」がいつしか政府のやり方に不満を抱く人々の政治活動拠点として利用されるようになってしまった。
放っておけば反乱や暴動といった活動に発展しそうな勢いである。
心配した重臣たちが「郷校」の閉鎖を進言したところ、子産はこう言って反対した。
「いや、その必要はない。
彼らは朝晩の仕事を終えてから郷校に集まって我が国の政治を批判している。
私は彼らの意見を参考にして、評判の良い政策はどんどん実行し、評判の悪い政策は改めるように心がけている。
彼らはいわば私の師である。もちろん弾圧すれば彼らの言論を無理やり封じ込めることができるだろう。
しかし、それは川の流れをせき止めるようなことだ。
そんなことをすれば、やがて水は堰を切ってあふれだし、大洪水となって数え切れぬ死傷者を出すに違いない。
そうなったら手の施しようがなくなる。それよりは少しずつ放水して水路に導くに越したことはない。
国民の言論もこれと同じこと。弾圧するよりも聞くべきは聞いてこちらの薬とした方がいい」
こういう態度は子産の政治に対する柔軟な姿勢を示しています。
子産は剛と柔のバランスの取れた政治を行って名宰相と讃えられましたが実際問題、剛と柔の兼ね合いは難しいところです。
子産は病で死の前に後任の子大淑という人物を呼んでこう忠告しています。
「私は政治には2つのやり方があると思います。
1つは剛の政治、もう1つは柔の政治だが、一般には剛の政治を行ったほうが良い。
この二つは例えてみれば火と水のようなものだ。
火の性質は激しく見るからに恐ろしいから人々は怖がって近寄ろうとしない。
だから、かえって火によって死ぬものは少ない。
ところが水の性質はいたって弱々しいので人々は水を恐れない。
そのため、かえって水によって死ぬものが多い。
柔の政治は水のようなもの、一見やさしそうだが実は非常に難しい。」
一般に政治家は人気や評判を気にするあまり柔に偏った姿勢、国民に阿った政策公約を取りがちである。
しかし、それでは政治に締まりがなくなってくる。
子産をそれを戒めたのである。
この言葉は2500年前から今の政治、政治家のポピュリズム政治に対する警鐘と私は受け止めています。
(みんな中国の古典に出てくる人物ですね。狭量の排外主義の連中が聞いたら怒りだしそうですね笑)
今回はその中から【史記】に出てくる子産とはどんな人物なのか?
ご紹介させていただきます。
今から2500年ほど前、中国春秋時代の鄭という国に子産という名宰相が登場しました。
子産の政治の特徴は剛と柔、つまり厳しい部分と優しい部分のバランスがよく取れていました。
このような手法によって子産は鄭の国を安泰に導きました。
【厳しい部分】
子産が宰相を務めた鄭という国は他の国に比べて小さな国で大国と対峙して生き残るためには、何より国力を充実させ国家として強化させることが一番の課題であった。
子産は様々な手を打って農業の振興策を講じる一方、軍事費を確保するために新しい税金の取り立て制度を導入しました。
この時国民は負担のつらさに耐えかねて
「子産など殺してしまえ!」
と、怨嗟の声が国中に満ちました。
重臣たちはごうごうたる非難の声に耐え兼ねて中止を進言しました。
しかし、子産はその声には一切屈せず
「国の利益になる事なら好みを犠牲にしても構わない。私はこう聞いている。
善を行うならあくまでもやり抜く、そうでなかったらせっかくの善も役に立たぬ、と。
国民の非難を受けたからと言って改めるわけにはいかぬ。私は断固としてやり抜くつもりだ。」
こう言って子産はあくまでも政策の貫徹を図った。
しかし、3年、5年と経つうちに、農業の振興策が軌道に乗って国民の生活も向上していくと、当初は子産を殺してやれと息巻いていた国民も、次第に子産の政治を善性と讃えるようになった。
このように非難に屈しないで自ら確信する政策を貫徹するやり方が剛の部分。
【優しい部分】
鄭の国には昔から指導者の養成機関として各地方に「郷校(きょうこう)」と呼ばれる学校があった。
この「郷校」がいつしか政府のやり方に不満を抱く人々の政治活動拠点として利用されるようになってしまった。
放っておけば反乱や暴動といった活動に発展しそうな勢いである。
心配した重臣たちが「郷校」の閉鎖を進言したところ、子産はこう言って反対した。
「いや、その必要はない。
彼らは朝晩の仕事を終えてから郷校に集まって我が国の政治を批判している。
私は彼らの意見を参考にして、評判の良い政策はどんどん実行し、評判の悪い政策は改めるように心がけている。
彼らはいわば私の師である。もちろん弾圧すれば彼らの言論を無理やり封じ込めることができるだろう。
しかし、それは川の流れをせき止めるようなことだ。
そんなことをすれば、やがて水は堰を切ってあふれだし、大洪水となって数え切れぬ死傷者を出すに違いない。
そうなったら手の施しようがなくなる。それよりは少しずつ放水して水路に導くに越したことはない。
国民の言論もこれと同じこと。弾圧するよりも聞くべきは聞いてこちらの薬とした方がいい」
こういう態度は子産の政治に対する柔軟な姿勢を示しています。
子産は剛と柔のバランスの取れた政治を行って名宰相と讃えられましたが実際問題、剛と柔の兼ね合いは難しいところです。
子産は病で死の前に後任の子大淑という人物を呼んでこう忠告しています。
「私は政治には2つのやり方があると思います。
1つは剛の政治、もう1つは柔の政治だが、一般には剛の政治を行ったほうが良い。
この二つは例えてみれば火と水のようなものだ。
火の性質は激しく見るからに恐ろしいから人々は怖がって近寄ろうとしない。
だから、かえって火によって死ぬものは少ない。
ところが水の性質はいたって弱々しいので人々は水を恐れない。
そのため、かえって水によって死ぬものが多い。
柔の政治は水のようなもの、一見やさしそうだが実は非常に難しい。」
一般に政治家は人気や評判を気にするあまり柔に偏った姿勢、国民に阿った政策公約を取りがちである。
しかし、それでは政治に締まりがなくなってくる。
子産をそれを戒めたのである。
この言葉は2500年前から今の政治、政治家のポピュリズム政治に対する警鐘と私は受け止めています。